〜はじめに、
私はベジタリアンでもヴィーガンでもありません。なんでも食べるしお酒ものみます。
だからといってベジタリアンやヴィーガンの方々の考え方に反対というわけでもないです。
これから食について個人的な意見を書きますが、
私とは考えの違うどなたかを批判するつもりはありません。
また明確な結論もない文章になります。読むことでモヤモヤっとしてしまうかも知れませんので予めご了承ください。〜
私は、幼いころから食欲旺盛で、大人になってからも大食漢で時に周りの人に呆れられるくらいたくさん食べる人間です。
そんな私でも、ヨガを勉強していくうちに「食べる」行為に対しての疑問が出てくるようになりました。
その疑問とは
「どうして生き物は生きるために他の生き物を殺して食べることが必要なのだろうか?」ということ。
ここでいう生き物は
哺乳類だけではなく虫や魚や植物も含みます。
私はこの世界に存在するものは植物も小さな石ころも
私たち人間と同じ魂があると考えています。
そう考えれば考えるほど
食べるという行為をどのように理解したらいいのか悩むようになりました。
そんな時
インドの聖典バガヴァッド・ギーターの主人公のアルジュナの苦悩とこの悩みは似ているのかも知れないとふと思いました。
バガヴァッド・ギーターのお話は
憎くもない、なんならお世話になった恩人たちと戦争をし殺しあわなくてはいけない運命をもった主人公アルジュナのお話です。
親しい人を殺さなくちゃいけないのなら自分が死んだ方がマシだ!という主人公アルジュナに神様であり友人のクリシュナはざっくり言うと
「自分の五感からくる好き嫌いで判断しない。全体の調和を考えて行動しなよ。」と言います。
つまり、戦士として生まれ、避けることが出来ない争いが始まったのだから受け入れて戦え。と言います。
(クリシュナは実際には、こんなつっけんどんな返答ではなく本では何ページも使ってもっと丁寧にやさしくアルジュナを諭します。ここでは便宜上私の偏見に満ちた解釈で短く表現しています。)
これを食べるという行為に当てはめてみたら、
食べなくても健康に生きていける不食の出来る方はそのまま食べなくていいのだろうけど、
食べないと病んだり死んでしまう大多数の人たちは、食べ物が可哀想だといって食べないことも実はエゴなのかも知れない。と思いました。
食べる行為についてまだまだ明確な答えは出せないけれど、
これからもインドの哲学の勉強を深めていつか自分の中に納得出来る答えを見つけていきたいと思います。
明確な結論のない文章で申し訳ないですが最後まで読んでいただきありがとうございます。